このブログを検索

2016年5月23日月曜日

文挟夫佐恵と、例幣使街道「文挟」のこと















どうでもいい話かもしれないが、人によっては、へ~、と思ってくれるかもしれないので書く。

文挟夫佐恵さんのことである。
知らない人もいるかもしれないので略歴を…。

文挟夫佐恵(ふばさみ・ふさえ)
大正3年東京府大久保生まれ。
東京府立第五高女卒。
上川井梨絵「愛吟」、飯田蛇笏「雲母」を経て、石原八束らの「秋」に参加。
「秋」主要作家として活躍。
平成10年、八束没後、「秋」主宰を継承。
第12回現代俳句協会賞、第2回桂信子賞、第47回蛇笏賞などを受賞した。
句集に『黄瀬』『葛切』『天上希求』『井筒』『時の彼方』『青愛鷹』『白駒』などがある。
平成26年没、享年100。

特筆すべきはなんといっても「蛇笏賞」である。
なんと99歳で受賞した。
史上最高齢受賞である。

俳壇の高齢化を感じる出来事だったが、高齢でも立派な充実した作品を作ることができる、と証明してみせた出来事だったようにも思える。
石原八束存命中は、「秋」の顔はなんといっても八束であったから、いわば「二番手」の彼女に日が当たったのもいいことだった。

代表句をあげておこう。

炎天の一片の紙人間(ひと)の上に
南海の地図の蒼さを初夏の部屋
帰還兵なり雪嶺の下に逢ふ
凌霄花(のうぜん)のほたほたほたりほたえ死
反戦の一人の旗を巻く朧
風花や候文の恋ありき
九十の恋かや白き曼珠沙華
艦といふ大きな棺沖縄忌
限られしいのちの果の花万朶

個人的にはやはり晩年の作品が素晴らしいと思う。
自在な詠みぶりで、一つの「老詩境」を示してくれた。
こういう自在な詠みぶりは、これまで男性俳人にはいた。
しかし、文挟さんの老詩境には自然な「艶」があった。
そこがいい。

さて、言いたいのはここからである。
私はいつも、

「文挟」って珍しい名字だな~~。

といつも思っていた。
文挟さんの作品に触れると、(もちろん作品も素晴らしいのだが…)いつも、名字の珍しさにひかれた。

ところで私は現在、「おくのほそ道」踏破の旅をしている。
GW後半、2日ばかりだが、歩いた。
「室の八島」から「日光」までである。
日光手前の「杉並木」では足が棒のようになった。
車で通ればあっという間だが、歩くと、「なんて遠いのだろう…」と思った。

その杉並木の後半に「文挟」という駅があった。
驚いた。
案内板を見ると、ここら一帯が「文挟」という地名らしい。
栃木県鹿沼市を抜け、日光今市宿の数キロ手前にある。

ひょっとして文挟さんはここの出身なのではないか?

と思った。
もちろん「祖先」がである。
そうでなければあんな珍しい名字が付くものか…と思った。

家に戻って調べてみると、「文挟」姓にはこういうことが書かれていた。

栃木県文挟宿発祥の姓。
近年では今市市(現・日光市内)に多くみられる。
「語源」は日光東照宮に差し出す幣と宣命を入れた箱を奉じて、進行した場所に由来する。

とある。

後半の説明があやふやな気がする。
つまりこうだ。
「挟」とは「書物を蔵する箱」をいう。
「宣命」は「天皇の命令書」。
天皇の命令書(実際は東照宮に祀られている徳川家康をたたえる言葉だろう)を入れた「箱」を「文挟」というのだろう。
それを、ここらへんから捧げながら歩いたことから「文挟」となった。

ここは「例幣使街道」なのである。
例幣使とは、天皇の使いである。
天皇の使いが、京都から中仙道を通り、高崎の追分から例幣使街道に入り、日光東照宮へ向かう。
その街道なのである。

私は大満足した。
長年の疑問が解け、晴れ晴れとした。
まあ、あっているかはわからない…(笑)。

書物には「文挟」という姓は「ほぼ十人」と書いてある。
ホントかどうか知らない。
(10人っていったら2家族くらいしかいないじゃん…。)


2 件のコメント:

  1. こんばんは!
    へえ~ (笑)

    たまたま・・ふばさみ駅の写真を撮って居たのでしょうか?
    調べましたら、日光線で唯一の無人駅とか。

    何時も編集長の探求心に・・感心して居ます(*^▽^*)
    文挟宿発祥の姓なのですね。
    良い勉強に成りました。
    有難うございます。  三泊みなと

    返信削除
  2. 喜多波子様  「へえ~」と思っていただいてありがとうございます。駅を見つけて「あっ」と思い、写真を撮りました。正直、何もない(?)ところでしたが、坂東武者が駆け抜けてゆきそうなすがすがしい地でした。

    返信削除