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2016年7月5日火曜日
死が持っていってしまうもの
こんにちは。編集長の林です。
写真は5月に訪れた栃木県日光の神橋。
お気に入りの一枚なのでアップしました。
「俳句界」は今、8月号の最終チェック中。
ただ、私は10月号の交渉をしたり、9、10月号の原稿依頼、頼まれた句集原稿の選句や整理、自分担当句集の見積もりや請求書を書いたりしている。
いつも何かに追われていて、土日に出社したり、自宅でインタビューのまとめをしていたが、51歳を機に、自宅に仕事は持ち込まないこととした。
そのおかげで休日はリフレッシュできる。
昨年秋から海のそばに住み始めたのでよけいにのんびりできる。
その分、平日はますます追われている気がするが、まあ、仕事を持っている以上、こういうことは仕方ないのだ、と思うようになった。
うちのスタッフも書いていたが、俳人の訃報が続く。
松本翠「橘」副主宰、後藤立夫「諷詠」主宰などなど。
最近、考えているのが「思想、思考の喪失」ということである。
自分もブログを書いたり、東海道、中仙道、おくのほそ道を歩き続け、さまざまなことを考える。
あらたに気づいたこともあるし、おぼろげに「こういう風に考えてみたらどうか?」という検証途中の考えなどがたくさん生まれている。
きっと先人たちにもそうだったのではないか、いや、僕でさえそうなのだから、ほとんどの人にそういう解決途中の思考、思想があっただろう。
芭蕉も「かるみ」「ほそみ」「しほり」のあとの思想が芽生えていたかもしれない。
坂本竜馬にも、維新以降の日本のビジョンが芽生えていたであろう。
それらはすべて彼らの死とともに天へと召されていった。
これは大変な喪失なのだ。
ひょっとしたら命以上の貴重なものが、たくさん天へと召されていった。
「死」とは「思想、思考」の喪失なのだな~、と最近つくづく思う。
そのもったいなさに愕然とするのである。
もしそれを僕らが継承してゆけば、もっと豊かな文芸の世界、日本や世界があったはずだが、それはできていない…いや、どうやってもできないというべきか。
源実朝、織田信長、芭蕉、坂本竜馬、正岡子規、夏目漱石や、その後の素晴らしい俳人たちの頭の中に残っていたもの、芽生えていたものを、継承出来たらどんなに素晴らしいことだろう。
死というものはそういうものも持っていってしまう。
そのことが(どうにもならないことだが…)もったいないな~、と思う。
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